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みんなの「モータースポーツ」ブログ


23rd Tokyo Moto rShow その1(モータースポーツ車両)

2012/07/24 01:38
若い頃はマメに写真を撮っていた。そしてそれをアルバムに保存していた。かなり暇だったのだろうな(笑)。

そんなアルバムが長い年月の間にカビててしまい処分する事にしたのだが、懐かしさもありブログにアップすることにした。大した画像ではないのでがっかりなさる方も多いかもしれないが、ご勘弁を。


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これは当時あまり好きじゃなかったのだけれど、今見るとかっこいい。このデザインで今売ってたら買うかも?


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これはちょっと好きでした。いいクルマだったな。


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モンテカルロラリーにも出たようだ。昔はそんなデータもそらんじていたと思うが、今はもう記憶にない(笑)。


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これも記憶にないが、デイトナでクラス優勝したクルマか。


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市販車両をそれ風に仕立てたのか、競技車両そのものかどうかも不明。


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これはマーチ782だったかな。たしかサイドポンツーン下部が空洞で、そこからダウンフォースを得るんじゃなかったっけ?


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エンジンは日産製のFP(フォーミュラパシフィック)車両。たしか長谷見さんが乗ったんだと思う。


もう、うろ覚えなので間違っていたらご勘弁を!

詳細ご存知の方はコメントなどいただけると嬉しいです。

<つづく>

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WTCC岡山Rd.

2009/10/16 23:35
今月末はいよいよWTCC岡山だ。

我らが荒聖治選手も参戦する。夫婦&息子も娘もファンなので、今年は是非応援に行かねばとは思っていた。しかし、生憎の不況による財政難で、今年もそれは叶いそうもない。非常に残念だが仕方がないのだ。

サポートというには贅沢な、併催レース3つ。Asian Le Mans、Formula BMW、F4日本一決定戦もまたすごく魅力だ。私が思う限りでは、なかなかこんな贅沢なレースは無い。マニア受けはかなり良いとは思われるけれど、一般のモータースポーツファンには受けが悪いだろうなあ。こんなご時勢だし、観客が多いと良いのだが・・・

それにしても、良くもまあ開催を決定したものだ。主催者は尊敬に値する。これを糧に、日本のモータースポーツ文化が、少しでも熟成してくれると良いと思う。

聖治君、今年もTVで応援しています。頑張ってねっ!!!

今週末は、F1ブラジルGPだ。トヨタからはティモ グロックの代役で小林君も走る。彼は日本人らしくない走りをするすごい人だ。このまま順調に育っていって欲しいと願っている。

そしてWTCC岡山、ここも大好きなレースであるマカオGPと続く。秋はモータースポーツ三昧、旬のシーズンでもある。この後はオフシーズンで寂しくなるが、早く景気回復して、我が家もサーキットへ行ける位のゆとりが出来るようになって欲しいと切に願う。

来年はどうなのかなあ・・・

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全日本カートレース 1982

2009/02/23 22:43
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1982年当時、まだ郵便局に勤務していた。
計画年休という制度があり、前々年度に余った有給休暇をカレンダーに予め登録し、消化するという物だった。当時、一般企業ではまだまだ休暇の取得が難しい時代であった中で、異例の制度だったかもしれない。

それを利用して休暇を取り、カートの全日本選手権を追っかけた。一応ピットクルーという名目での参加だ。僕は全く「使えない」奴だったのだが、平日に休みを取れる者がなかなか居らず、僕に白羽の矢が立ったのだ。

今の山武市、当時山武郡成東町という所に有った「成田カートランド」という所に行った。今はきっと住宅が沢山建っているであろうこの地域、この頃はまだ家も少なく、早朝という事もあり人影も無い。道も聞く事も出来ず、初めてのカートコースはなかなか見つからなかったのを思い出す。何しろカートコースは何処も山の中に有り、ものすごくわかりづらい。看板などもあまり無く、なかなか見つからないのであった。当時行っていたカート屋の社長にブツブツ文句を言われながら、眠い目をこすって運転し、初めての道をさまよってやっとたどりついた後の僕のテンションは、かなり下がっていた。

そのうえ、参加する友人のカートのエンジン慣らしを担当しなければならなかったのだが、キャブのセッティングも聞かずに来てしまった。ゴタゴタしていてそんなゆとりはなかったのだ。
走り出すが、なかなか始動しない。社長に何度も押してもらい、始動を試みるが、殆ど走れずじまい。あまりのスロー走行はかなり顰蹙で、全日本勢からニラまれてしまう羽目に。僕が悪い訳では無いと思ったのだが、情けない事は確かだ。ちょっと悔しい。涙ぐんでいると、顔見知りのチームの社長やドライバーが「大丈夫?」と心配してくれる。
一日目はさんざんの結果だった。慣らしは結局完了しなかったし。

2日目は、本来のクルーが合流。公式練習も始まり、迫力も増してテンションは上がる。何とも素晴らしい走りだ。とても同じ構成の車とは思えない、ものすごいレースだ。カルチャーショックの連続である。

夜はやっと大人数になり、ちょっと楽しい。宿は飯場のような所だったが、当時はさして気にならなかった。九十九里浜へ出て「社長のバカヤローっ!」と叫ぶ。皆共感してくれて嬉しかった。楽しかった。

決勝は良い所無しで終える。決勝後だったか、他のチームの某有名ドライバーと、静岡のエンジンチューナの喧嘩も見られた。後に雑誌などでも話題になったので、もしかしたらご存知の方も居られるだろう。

プログラムは成田のものでは無いが、表紙はまだ若かった鈴木亜久里だ。もちろん彼も走っていたし、最後にお世話になったショップ「チームクニ」の藤本邦彦さん、その他菅谷安智さんなど、素晴らしい方々がエントリーしていた。今も結構華やかなのだろうが、当時はカート人口も多く、面白かったと思う。初めてのコースでは有ったが、一応走行も出来たし、全日本勢の走りも垣間見ることが出来た。

そうそう、ジャーナリストの高橋二朗さんはこの頃カート誌の取材をしており、顔見知りになった。今でもサーキットでお会いすると笑顔で迎えて下さる優しい方だ。

嫌な事も有ったが、今となっては楽しい思い出である。ごく一時期ではあるが、そういうイベントに参加出来た事は貴重だったと思う。


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スバル、WRC撤退

2008/12/18 07:57
景気が悪い時は、モータースポーツ界にも危機が訪れる。支援してくれるスポンサーも少なくなるし、参加している企業の業績だって上がらないからだ。

先日はホンダがF1撤退を発表、スズキもWRC撤退を表明済みだ。この2つは、ある意味仕方無かったと言えるかなと感じていた。

昨日スバルがWRC撤退を表明したのには、かなり驚いたし、非常に残念であった。当事者の無念さははかり知れないだろう。スバルは新型インプレッサを投入後好調であり、誰もが来シーズンに期待をしていたと思われる。

我が家でもWRCシリーズTV観戦は楽しみのひとつだ。全戦中継されるのは大変有り難い。

息子は、我が家の車がトラヴィックだった事もあり、スバルを愛していた。町で見かけるWRCもどきのインプレッサを見かけると「スバル〜!」と叫ぶ。「スバル」は息子が比較的早く覚えた単語でもある。娘でさえ「これはシトロエン?これはフォード?」などと言っていた。「スバルは来年やらないんだよ」と言ったら、良く意味も分からないかと思われる娘も、ちょっと悲しそうにしていた。

こんなご時世なので、その他のモータースポーツにも大きな打撃があるだろう。またまた我慢の時代になってしまった。だが、こういう時には得てしてレギュレーションの改定が行われ、より低予算での活動が可能な仕組みになっていくのだろう。すぐには無理かも知れないが、早期の復帰を望みたいし、当事者達もそれを願っているに違いない。小さな会社だからこそ、WRC等での活躍はより大きな誇りであり、企業の原動力になっていたはずだ。熱烈な支持者も多いはず。

プライベートの支援などは継続されるのだろうが、頑張れ!スバル。復活待ってるぞ〜。
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WTCC

2008/10/23 23:17
今週末はWTCC岡山だ。

日本初開催だし、生で見たい気もちょっとするが、Jスポーツで中継されるので、TV観戦で我慢だ。

本当はF3が一番好きだが、ツーリングカーも面白い。WTCCはオンエアでもいろいろ工夫が有るし、サーキットも普段あまり見かけない所なのでちょっと嬉しい。昔活躍した、ちょい悪オヤジ風なドライバーたちも、良い味出している。市街地サーキットのポーやマカオなどは特に好きなラウンドだ。ロケーションも良いしレースもエキサイティングで非常に宜しい。

岡山も、全日本などにはちょっと小さいけれど、ツーリングカーなら面白いかも知れない。今後はどうなのだろうか?今年の大会が今後の行方を占う事になるのだろうが、日本では何故かマニアックなレースは受けない。

昔富士で行なわれた「インターF3」などが良い例だ。同じツーリングカーで行なわれていた、JTCCも非常に面白かったが、数年でおしまいになってしまった。唯一、インターテック位が成功しただろうか?景気の良い時代だった事も理由の一つだったのか?

何れにしろ、欧州のモータースポーツ文化を垣間見る事が出来るのは大歓迎だ。是非とも良いレースを見せて欲しいと願う。

唯一の難点は、僕はまだ最初の2戦位しか見れていない事だ。例年、録画はするのだが、見ないで消去してしまう事も。先に岡山見ちゃったら、それ以前の楽しみがちょっとだけスポイルされるからだ。我が家では、WTCCとDTMのシーズンは、これからが佳境なのだ。雑誌も読まないので、当然ながら結果も知らない。今年は何処まで見られる事になるのかなあ?
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RTタクミ

2008/07/16 07:44
若い頃は2輪にも多数乗った。

僕はバランス感覚が無く、しかも臆病なので2輪には向いていない。が、楽しいものは楽しい。高性能な自動車は高価だが、それと同じか、ずっと上の性能を有する単車でも比較的安価に購入出来る。財布の軽い若者には最適だ。

20代半ば頃から10年以上、殆ど毎日バイク屋に通っていた。市販車も扱うが、競技車両のメンテナンスのノウハウを持ったお店であり、他には無い珍しいものが当たり前のように有った。
お店は小さいが、それがまたアットホームな雰囲気で良かった。仕事が終わるとお店に行き、ダベったり、自分の単車を見てもらったり自分で整備したり。お腹が減ると近所の弁当屋に行き、オイル缶を椅子に、作業台をテーブルにして皆で食べた。時には皆で外食もしたが、どちらにしても一人で食べるよりずっとずっと楽しかった。毎日夜遅くまでそこで過ごした。家に帰ってもお風呂に入って寝るだけの生活だった。

僕は不器用で、自分でメンテするには大変な苦労をした。他の奴が数分で終える事を、なかなか終えられずにいた。皆はそれがじれったいらしく「こうするんだよ」とか「俺がやってやるよ」と言いながら、代わってくれる事が多かった。カートのエンジンなどもここでバラしたが、自分で組むより友人達がやってくれた方がずっと確実で安心だった。いつも「出来ないな〜」と言っていると「また始まったよ〜」とか言いながら、皆助けてくれた。見ているのがじれったいらしいのだ。

いつしか僕の作業は誰かがやってくれる事が多くなった。「TAKE54くんの作戦だ〜」とか言いながらも、結局はやってくれる。みんな暖かい友人達だった。

そういうメンテは、店主の手を借りていないので店の収入にはならない。何とも迷惑な客達だったと言える。だが、それを容認して、というか一緒に楽しんでいた。何とも商売気のない・・・と思うかもしれないが、口コミでマニアックなお客が来た。古い単車のO/Hや、セッティングの難しいキャブレターなどで困っている人などのかけこみ寺のような存在だった。大手の中古屋などで単車を購入し、満足なメンテをしてもらえなかったような人たちにとって、本当に有り難いお店だったと言える。

かくいう自分も、他の店で買ったCB250RS(単気筒、ツインエグゾースト)をこの店でカスタマイズした。大きさ的にも、パワーも、乗った感じも、非常に気に入っていた。オリジナルデザインの嫌な部分のみ、自分なりにリファインした。ヘッドライトは角型から大径の丸目(CB750用)に、タンクの塗装は昔のドカティのような黄色に。そこにネイビーのストライプを入れてもらったら、わずかな金額で見違えるようになった。排気音が「パタパタ」と乾いた音だったので、皆に「パタパタ」と呼ばれていた。後に買ったVWゴルフは「カラカラ」だ。

この店に行くようになってから、モータースポーツに対する認識が随分高まったように思う。「いい仕事」をするレース屋だったのだ。友人達の一部は富士を中心にしたレース活動をしており、僕もサーキットに手伝いというか、応援によく行った。

その頃、まだ富士はピットウォールが無く、ストレートとピットロードはガードレールで仕切られていた。今思えばものすごく恐い話だ。ただ、サインボードは筑波のようにピットガレージ内から出すシステムだったように思う。
友人達は結構速く、エキサイティングなレース展開で楽しかった。僕のモータースポーツライフは、2輪の友人・知人が増えた事で大きな広がりを得た。

ツーリングも良く行った。でも、僕はいつも皆について行くのが精一杯で、景色も、道順も、殆ど記憶が無くて悲しい。もう20年以上も前の話だ。後年は痔がひどくなって単車には乗れなくなってしまったのだった。
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マカオGP’94(その3)

2008/04/09 16:53
月曜早朝にジェットエンジンの高速船で香港へ。船は速いのだが、その分すごく揺れる。この日は波が荒く、乗り心地は最低だった。船内でサンドイッチの朝食だったのだが、Aちゃんは船の揺れに耐えられず体調を崩してしまう。他の者達は幸い無事だった。僕はジェットエンジンの音にちょっと感激してしまい、名残り惜しかった。いかにも速そうで良い。

午前中はツアーに組み込まれ、観光地巡りなどに行かされる。当然のようにこの日も彼女達と行動を共にする事となる。香港島では、九龍半島の反対側にあるレパルスベイでのんびり出来たのが良かった。ごく普通の観光地といった感じだったのだが、季節柄か観光客も少なかったのでのんびりムードだったのか?何故かここは印象に残っている。

ツアーに組み込まれたランチでは、オートスポーツの熊谷編集長(当時)とたまたま同じテーブルで何となくバツが悪かった。普段サーキットで彼は、いつも入ってはいけない場所に居て、僕が注意する立場だったのだ。プレスには他にもこういう輩が何人か居て、あまり良いイメージが無い。たとえ偉い人でも、サーキットに来ればレギュレーションに従わなければならないのだ。同じプレスでも、高橋二朗さんのようにキッチリした方もいる。

ランチの際気が付いたのは、日本人だけのランチはものすごく静かだという事だ。香港の人達は食事の際にぎやかで、いつも沢山お喋りをしている。どう見ても後者の方が楽しそうだ。食文化の違いなのだろうが、チャイニーズではテーブルを汚したりするのもタブーではないので、気兼ねが無い。お行儀の悪い私でも、チャイニーズならOKだ。

ランチを終え、午後からはいよいよフリーだ。彼女達はお買い物の事で頭がいっぱいの様子だ。
今はもう無いようだが、当時は大きなショッピングモールの有ったセントラルに行く。女の子の買い物に付き合うのを嫌がる人も居るが、僕は興味深々だ。あちこち行ったがエルメスが一番良かったように思う。僕は普段こういう所に縁が無いため、沢山の種類を見られる機会が無い。縁の無い場所と思っていたのだが、意外に魅力的な商品も有った。欲しいとは思ったが当然ながら高くて手が出ない。僕の好きなゴルチエも有り、入ってみるがあまり買いたい物は無かった。
しかし彼女達は何を着ても、どんなアクセサリを付けてみても、結構似合ってしまう。「どう?」と聞かれるが「いいね。似合うね」としか言いようがない。いろんな店で「着せ替え人形ショー」を楽しんだ。女性と何処かへ出かける機会の少なかった私にとって、なんとも贅沢な時間だったように思う。

さて、この日の夕食はハイアットリージェンシー九龍のチャイニーズレストランでのディナーだ。これはW氏のお姉さんがコーディネイトして下さったものだ。若い女性同伴と言う事で、「最近のオンナはマナーが悪いんじゃないの?」と危惧したお姉さんは、当初このディナーは中止したいという意向だったようだが、W氏もすっかり彼女達に惚れ込んで、そんな心配はご無用となった。
皆で驚いたのだが、彼女達は僕らとの待ち合わせに一度も遅れた事が無い。必ず、約束の時間前にその場所に居るのだ。仕事で鍛えられたのかも知れないが、遅刻が嫌いな私ですら、彼女達の正確さには関心した。言葉遣いも、今風ではあるがきちんとしている。後に知ったが2人とも良い家庭で育てられたのであった。

さて、お姉さんは財布の軽い私達を心配して、「日本円で5千円のコース」を特注して下さった。しかし、とても5千円では食べられないと思われるような豪華なディナーであり、みんな感動していた。中華に飽きていたAちゃんも、「これなら全然大丈夫!」と大喜びだ。
特に絶品だったのは北京ダックであったが、出てくるどの食事も、中華とは思えないエレガントさがあり、味付けもさっぱりしていたので今の時代でもウケるだろう。

ディナーの後、お姉さんに案内され、ビグトリアピークに登る。うちの親父(船員であった)も若い頃見たであろう香港の夜景を眺める。親父が見た当時とは眺めも随分違うのだろうが・・・
「行きはピークトラムで、帰りはダブルデッカーで下るのが面白いよ」と言って下さったのだが、既にかなり遅い時間だったので既にダブルデッカーの配車は無かった。だが、普通のバスでも日本とは違い随分飛ばす(運転手さんによって違うが)ので、私自身としてはかなり楽しめた。

ホテルまではのんびりと歩いて帰った。香港でのホテルはロイヤルガーデン。ちょっと古いが景色も、部屋もまあまあ。ハーバービューは望むべくもないが、窓からは九龍公園や尖沙咀の夜景も見える。
明日は友人の奥さんに教えてもらった飲茶屋さんに行く予定だ。

翌朝は、九龍公園経由で尖沙咀駅に出る。パークレーン・ショッピングモールに有った「ESPRIT」(当時はまだ旬であった)で、僕が当時思いを寄せていた女性へのおみやげにしようとコートを見る。Aちゃんが代わりに着てみてくれたが、何でも似合ってしまうのでイメージが沸かない。が、彼女達の勧めもあってそのコートをチョイスする。このおみやげは帰国してからとても喜んで貰えたのだが、片思いだった故、その後叶わぬ事となるのだが・・・

地下鉄でコーズウェイベイへ向かう。当時は三越など日本のデパートも何件かあったのだが、今はもう無いのだろうか?目的地はパークレーンホテルの中にある飲茶屋だ。ここはワゴンでいろんな物を運んで来るので、実際に見てチョイス出来る。中国語(広東語?)が分らなくとも大丈夫。日本では食べられないような物。食べたくない物!?などをいろいろ堪能出来た。日本人は殆ど居らず、現地人が多かったのも良かった。お姉さんから聞いて知ったのだが、中華を食べる際に出てくる器とお皿(カップとソーサーのように重ねて出てくる)、日本人はお皿を使うが、向こうではカップを使う。お皿は骨とか、食べ滓みたいな物を置くために使う。周囲を見回せば、なるほど皆カップを使っている。別にどちらでも良いだろうとは思ったが、現地の人たちを真似てみる。カップが汚れたら、頼めば新しいものを持って来てくれる。烏龍茶も、無くなったら蓋をずらしておくと、お湯を継ぎ足しに来てくれる。帰国してから会社の人や友人達に話してみたが、多くの人には信じてもらえなかった。また体験出来るかどうかは分らないが、近い国だし、またチャンスが有ったら確かめてみたい。

それにしても、そういうひとつひとつの事柄が、全て皆とても新鮮で楽しかった。昔、親父が船員だった頃「外国ってどんな?」とよく尋ねたものだが、決まって親父は「何処も一緒や、何処へ行っても変わらん」と言っていたものだが、こんなちょっと離れた国でも、大きく異なる文化が広がっていた。親父は他所の国との違いを、充分以上に実感していたのだろうが、息子に言いたかった事は、「他人の事など気にせず、地道に頑張るように」というような思いだったのだろう。
親父が退職した頃私が上京したので、昔の話はあまり聞けないが、僕が大人になった今はもう、海外での出来事を話してくれるようになった。たまに実家に帰った際にはそんな昔話が楽しみの一つでもある。

また話が逸れたが、飲茶屋でお腹がいっぱいになった後はコーズウェイベイ近辺でまた買い物だ。僕は三越で、Aちゃんお勧めのクッキーをゲットする。名前は忘れたが、イギリス製の割には美味であった。
その後、トラムでハッピーバレーに移動。Mちゃんは靴とバッグをお揃いでオーダーする。
僕らはただ見ているだけのつもりだったのが、「明日の朝までに仕上げてホテルに届ける」という店員の口車に乗せられ、それぞれ靴をオーダーしてしまった。手作りの靴ってどんなかな?と思ってしまったのであった。

フェリー乗り場の近くの「BREE」で、僕はブリーフケースにお財布がビルトインされたような物をゲット。僕は何もかも一緒にしておかないと管理出来ないので、こういうバッグが欲しいと思っていたのだ。飛びつくように購入してしまった。今回購入したバッグには、現金・カード類・パスポートや鍵など、重要な物を全て入れておけるので非常に重宝した。BREEというブランドは、この時初めて知った。本当はドイツのブランドなのだが、その時の売り子に聞いたら「香港ブランドだ」と言っていた。僕はずっとその「でたらめ」を信じていたのだが、かなり後に人に教えられ、真実を知る事となる。それにしても、香港ブランドでは有り得ない(笑)品質の良さで、ボロボロになるまで随分長い間愛用した。今ではこれの後継となるバッグは存在せず、止む無くその辺で購入した物で妥協している。

その日の夕食は、皆が「四川料理を食べたい」というのでホテルのコンシェルジェに聞く。親切に教えてくれたのは良いのだが、そこはただの広東料理のお店だった。せっかく来たのだからと仕方無しに入る。「上海蟹が旬なので食べろ」と言われ、少しだけオーダーする。その他いろいろオーダーしたのだが、そのやり取りを聞いていたらしい隣のテーブルの方に「そんなに頼んだらすごい量(と金額も)になってしまいますよ」と話しかけられる。聞けば、幸い日本人の方であった。その方がオーダーを全て確認し直して下さり、あやうくボラれる所を回避出来たのであった。

ホテルへ帰ると靴屋からのメッセージが有った。電話ではちょっと分りづらいと思ったのだろう。「フロントに来ればプリントアウトしてあげるよ」というので取りに行く。見れば、「靴は間に合わないので出来次第送る」という内容だった。さっそく靴屋に電話する「間に合う約束で注文したのだから、キャンセルするからお金を返せ」と言ったが、「必ず送るからキャンセルはしないでくれ」と言う。「送料はどうするのか?船便か航空便か?」と聞くと航空便で送ると言う。S氏に聞いたらそれでOKというので承諾したのだが、本当に送ってくるのかは半信半疑だった。でも僕は、たどたどしい英語で一生懸命話してくる中国人の靴屋と話せてとても楽しかった。それだけで、もう充分だと満足した。今までは外国人と電話で話すなんて考えられなかったのだが、フロントとも、靴屋とも何とか会話が出来たのだ。それが何より嬉しかったのだ。
帰国後数週間経ってから、靴が送られてきた。「ホントに来たよ〜」と思ったのだが、靴は足型を取ったとは思えないほど窮屈で、皮も安っぽく、あまり履けた代物ではなかった。靴や衣類は、知っている店でじっくり選ぶのが良いという事が良く分った。

さあいよいよ帰国の日。おみやげで膨らんだ荷物をバスに載せる。午前中はDFCなどを経由し、帰国の途につくのだが、僕は何故だか風邪をひいてしまったようで調子が悪い。最後の最後で良かったのだろうが、飛行機の中では非常に辛い思いをした。そしてその後、2日間寝込む事になる。結局まるまる1週間程休んでしまう事となり、会社からは顰蹙をかったのであった。彼女達と別れるにあたり、僕はまるでローマの休日のグレゴリー・ペックのようなセンチメンタルな気分になった。しかし僕にとってこの「休日」は最高の物であったと思う。今書いた文章を読み返しても、ただのノロケ話のように思うが、誰しも一生に一度位はこのような事があるのだろう。今は死語となったが、当時は「リゾラバ」などという言葉も流行った。旅先では開放的な気分になり、羽目をはずしやすかったのであろう。

彼女達とはその後も1年に1度位は食事をしたり、サーキットへキャンギャルの仕事で来た際には僕のピットへ挨拶に来てくれたりもした。特にAちゃんは、2輪や4輪の大きなチームのキャンギャルをやっていたので良く会った。
だんだん疎遠になり、今では所在も分らないが、どうしているかなあと思うことがある。
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マカオGP’94(その2)

2008/03/24 12:44
決勝日も快晴だ。朝夕は結構冷え込むが、日中、日差しの下ではとても暑い。半袖が必要だ。

我々は早々にスタンドに行く。メインスタンド裏は大きな貯水池なのだが、そこから流れてくる風が冷たい。スタンドの屋根とフロアの隙間をその風がビュ〜っと下っていくので、寒がりの僕にとってはちょっと辛い。
今日は人がどんどん入ってくる。皆の席を確保すべく場所を探す。幸い、モニターの傍に良い席を確保。

朝のウオームアップ時、コースサイドに出てみる。F3マシンが見えた時、思わずガードレールから頭を出して覗いてしまった。絶対にやってはいけない事だと分ってはいたのだが、向かってくるF3マシン達の迫力を垣間見る事が出来た。後にも先にもこんな無遠慮な奴はいないと思うし、同行したS氏、オフィシャル仲間のW氏も「あきれ顔」であった。
今となってはもう時効だろうか?コースマーシャル経験者としては言語道断な行為であり、恥ずべき事でもあるのだが、私個人としては良い思い出?となった。旅の恥はかき捨て!?

ところで、我々のパスをチェックするマーシャルやガードマンだが、入場不可の場合はきちんと「ダメ」と言ってくる。無理矢理入ろうとしても拒絶するのだ。これには感心した。日本では、パスコントロールをきちんとしようという思いが無いのか知識が無いのか?ダメモトでパスを見せると入れたりする事が多い。比較的きちんとしている鈴鹿(人員も多い)ですら、インチキして入れる事がある。素人が知らずに危険な場所へ行ったりする事もあるので、きちんとパスコントロールして欲しいものだ。
余談だが、私はお金をきちんと払ってサーキットに行った事が無い。誰かがパスを用意してくれたりする事も有ったが、結構インチキで入った。富士や筑波では、どうやって不正入場するかのノウハウは結構持っていたのだが、後にマーシャルをやるようになってからそれが結構役に立った。インチキされそうな場所が分っているので、そこを張っていれば良かったのだ。

話を戻そう。彼女達も遅れて登場。無事合流出来た。今日はギアレースが2つとGP(F3)が2レースの他、サポートも有り、またまた盛り沢山だ。マツダが車両を準備する「女優さん」レースには、後藤久美子が出場した。もうぐちゃぐちゃで、誰が何位か分らなかった。
パレードではジャッキー・チェンも登場。「ジャッキー!」と声をかけるとカメラに目線をくれるのが嬉しい。こちらでは本当に大人気だと実感。

待ちに待ったGPレース、1Lapが長いので退屈な時も有るが、スタンド前を通過するのは一瞬だ。手前から見ていないと誰が誰だか分らない。モニターが近いのが唯一の救いだ。モニターと言っても14型くらいの小型のTVなのだ。プレスルームには大型画面のモニターが有るので分りやすい。
WSRなど、ヨーロッパ(イギリス)系の3チームは「モービル1」カラーになっていた。チームが違うので、細かなデザインや他のスポンサーなどは違うのだが、3チームすべて基本はネイビーブルーの「モービル1」カラーであり、とても珍しかった。マカオでは普段と違うスポンサーがつくチームは多いのだが、そういった意味でも見ていて楽しいレースだ。読めないのだけれど「漢字」のスポンサー名は何となく親しみが沸くし、新鮮な感じがする。
勝ったのはサッシャ・マーセン(ドイツ人)だ。レースの詳細はもはや覚えていないのだが、この年僕はたまたま彼のF3のミニチュアを購入していたので、何だか知人が勝った様な気分になった。彼は後に来日し、全日本F3をオペルで戦った。

ギアレースには、アジパシ(FIAアジア・パシフィック選手権)がかかっている。この年富士で行なわれたインターテックでも同様であった。通常のJTCCレギュレーションとは異なり、レース間のインターバルが長かった(確か3時間)。ここへ来てもシュニッツァーBMWはメチャ早い。メインスポンサーはサン・ミゲル等に変わっていたが、基本的に同じマシンで戦ったと思われる。日産からは鈴木利雄さんと長谷見さんも出ていたが、成績はイマイチだったようだ。

決勝後だったのか、土曜だったのかもう覚えていないが、グランプリミュージアムにも行った。中はそれなりであったが、僕が何より感動したのはF3(グランプリ)シュミレータ(ゲーム)だ。某チームの日本人ドライバーも体験していた。チケットを購入し、カプセルの中へ入ると、F3のグリッドにいる画面になる(実写)。シグナル青でスタートし、コースを1周する。最後にはどんでん返しも待っているのだが、路面の凹凸などもリアルに伝わってきて、非常に興奮した。自分で操作出来るコンピュータゲーム(マシン)も隣に有って、そちらの方が人気が有ったのだが、私としてはどう考えても前者の方が格段に面白そうに感じた。もし東京に有ったら、時々乗りに行けるのに・・・

この日の夜の事は、あまりに興奮したからかよく覚えていない。どこかのホテルのレストランで食事をして帰ったのだと思われる。
ただひとつ、よく覚えている事がある。現地合流のW氏は、香港在住だったお姉さん宅に帰りたかったようなのだが、船のチケットが取れずマカオの夜を警察の前の路上で過ごしたそうだ。我々も今なら泊めてあげられたのだろうが、何しろ当時は初の海外旅行という事で緊張しており、泊める事を躊躇してしまった。W氏は翌年の富士GTで競技車両に撥ねられて亡くなってしまうのだが、お通夜の席ではマカオで泊めてあげられなかった事をとても後悔した。

さて、翌朝は早起きして香港へ向かうのだ。そして、今思えばその香港での2日間が本当は一番楽しかったのかもしれないのだ。
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マカオGP’94 (その1)

2008/03/04 16:53
1994年と96年にはマカオGP観戦に行った。94年は、いろいろな意味で感慨深い旅だった。
まず、初の海外旅行であった事。もう結構良い年だったのだが、主として金銭的な問題で、それまで海外には行った事が無かったのだ。この年も実は、やっとお金をかき集めて行ったのだ。
長年行きたかったマカオに、ようやく行けるようになった事も嬉しかった。それまでいろんな人を誘ったのだが叶わなかったのだが、その年のF1パシフィックGPで一緒にオフィシャルをやったS氏と「マカオ行きましょう」と約束してあったのだ。僕はF3が大好きだ。F1も良いが、F3は同じシャシー(全く同じではないが、殆どがダララ)、エンジンも吸気制限がしてあり、イコールコンディションに近い。そんなクルマで若い連中が走る元気な姿は迫力があって楽しい。一度はマカオGPを見てみたいとずーっと思っていたのだ。

オートスポーツのツアーに空きがあると判明し、申し込む。ちょっと割高だが、初の海外だし仕方がない。チケットは本来別料金なのだが、S氏のおかげでアジパシ用のFIAパーマネントパスを借用出来る事となった。富士で言えば1番のパドックパスと同等で、ピットレーンやグリッドへは入れないのだが、プレスルーム等には自由に出入りが出来て非常に便利であった。

心配性の僕は、あれもこれもと荷物を詰めたので、大きなトランクになってしまった。出国を無事済ませ、金曜の夕方に機上の人となる。途中、台湾などの夜景が見えて綺麗だと思ったのだが、何より圧巻だったのは、かの有名な香港啓徳空港への着陸であった。今はもう見ることは出来ないと思うと余計に懐かしい。
香港への入国の際、結構遅い時間にも関わらずかなり混雑していた。「奥へ行けば空いているよ」というような事を言われ、どんどん奥へ進む。うしろから誰かがず〜っと着いてくるのを感じて、ちょっと気味が悪かったのだが、列に並び、後ろを振り返ると、同じツアーで来た女性2人だと分った。僕は女性に声をかけたりするのが苦手なのだが、礼儀かと思い、一応声をかけた。「たしか、同じツアーでしたね?」と。
成田で集合した際に、どうにも浮いている彼女達をちょっと見かけたのであった。「レース観戦に行く格好ではないなあ」などと思っていたのだが、香港入国を済ませ、マカオに出国するフェリー乗り場までの間にいろいろ話したところ、某レースのレースクィーンだと言う。こちらも向こうも全然覚えていなかったのだが、ちょっと前のイベントで同じ待機所に居たのだ。その話などをしながらすっかり意気投合し、マカオのホテルに着いた後の「夜食」もご一緒する事に。尤も、その後の食事は殆どが彼女達と一緒だったのだが。

翌朝は、2輪のエグゾースト音で目が覚める事となる。土曜は2輪の決勝日なのだ。その他、4輪のサポートレースも数多い。早々に観戦したかったのだが、彼女達は「前日は遅くに到着したので寝ていたい」と言う。サーキットで落ち合う約束をして僕らは先に行く事にした。プレスルームに行き、パスをお借りした方にお礼を言ったのだが、反対に大会関係者用ウエアなどのお土産を戴いてしまう。貴重な物まで戴けて大変嬉しかった。

この日は現地で落ち合ったオフィシャル仲間と3人でコースサイド(件のパスが役に立ち、普通は入れない所へ行けた)へ行ったり、パドックへ行ったりして明日の観戦ポイントを探る。幸いお天気にも恵まれ暖かく、大らかな気持ちになって、とても気持ちが良い。こんな事ならもっと早く来るべきだったと思う。結局、観戦ポイントはなかなか決められなかった。リスボアも行きたかったが、情報の多いピット前で観戦する事にした。

ところで、今回の旅行で意外だったのは、僕の英語が結構通じるという事であった。ボキャブラリも少なく、文法もなっていない初歩的な会話だと思うのだが、ここぞという所でそれなりの言葉が出てきて、自分でもビックリした。初の海外旅行という事で、上がっていたテンションもさらに上昇し、いろんな所で英会話を楽しんだ。何度も言うようだが、自分がこれ程に話せるとは思っていなかった。若い時はいつもお金が無く、何処へも出掛けられない時が多かったのだが、そういう時はビデオレンタル等でアメリカ映画を見まくっていた。ラジオもAFN(昔のFEN)等を聞くようにしていたのだが、そういう事が役に立ったのかもしれない。この時は「英語で物事を考える」という事が少し出来ていたように思う。だがしかし、今は既にその英語力も無い。使わないと忘れてしまう物だ。なるべく使うようにはしていたのだが、数年前にグアムに行った際には思ったように話せず、がっかりした。

昼食後にはコースサイド散策を兼ねて少々観光もした。サーキットの名前の由来となっているギア灯台に行く。残念な事に中には入れなかったのだが、マカオの町並みを見渡せてとても気持ちが良かった。
彼女達(名前はAちゃん、Mちゃんと呼ぼう)と写真を撮ろうという事になりカメラを向けた途端、表情もポーズもスッと変わった。そんな体験の無い僕達は思わず笑ってしまったのだが、モデル達の職業病なのだろう。「さすがだなあ」とS氏と2人で感心する。彼女達を写した物は撮り損ねが殆ど無かった。使い捨てカメラだったのが悔やまれるが、どちらにしろ画像は既に処分済みで残っていない。

夕食は(も?)、近所のホテルのレストランに行く。僕が買ってきたガイドブックが非常に役に立った。というか、それしか頼る物がない。僕らはある意味「孤立」していて、他のツアー客との交流も無かった。向こうからしてみれば、FIAのパーマネントパスを持った奴が、美女2人と共に行動しているのだから、「あいつら何者だ?」と訝しく思ったに違いない。あらゆる所で彼女達は注目を浴びた。雑踏の中、通りすがりの車などから、羨望の眼差しや、かけ声?などを本当にたくさん浴びせられた!!!僕はちょっとそれが怖かったのだが、表に出さないよう気をつけていた。ただ、周囲への注意は欠かさないように気をつけた。初めての外国行きで一番怖かったのはこのような時間だった。

夕食後はお約束のカジノ行きとなった。4人でリスボアへ行く。知らなかったのだがカジノ入場の際、バッグ類の手荷物は持って入れない。私だけ入口のクロークに荷物を預けてから遅れて入る。私は賭け事が苦手なのであまり気が進まなかった。当然ながら資金も無い。「大小」など簡単な物をを少しだけやって、Aちゃんと2人で輪タク?に乗って早めに帰る。夜風はちょっと肌寒かったが、気持ちの良い夜であった。MちゃんとS氏は、かなり遅くまで居たらしい。「チーム関係者なども居たよ」と言っていた。

ところで、マカオでのホテルは Grandeur(グランデュール)という比較的新しい、小さいが綺麗なホテルであった。北京街の真ん中あたりにあり、何処へ行くにも便利だ。屋上には回転するレストラン(テーブルじゃなく、建屋全体が回転)が有ったのだが、予約がうまく取れず其処での食事は叶わなかった。F1中継でお馴染みの川井ちゃんも同宿であったようだ。このホテルで不便だったのはエントランスが狭いため、客待ちのタクシーが殆ど居なかった事だ。タクシーを確実に捕まえたければ、近所のホテルまで出張する必要があった。

明日はいよいよ待ちに待った決勝だ!

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HAASE BRITZ(カート歴1993〜)

2008/01/30 07:58
ハッセ・ブリッツは93年に僕のところに来た。初の新車(コンプリートでの)という事もあり、とても嬉しかった。色が薄いパープル系で、当時は赤や黒のフレームが主流だった中では異色だった。紙製の小さなタグに、ミケーレというサインをしたものが付属しており、「ああ、本当にイタリアで作られたのだなあ」と実感する。ブリッツよりさらに上級のフレーム(名前は忘れた)のフレーム色はピンクっぽい色でとても素敵だった。本当はそちらが欲しかったのだが、価格的にも手が出なかったし、お店では僕の腕加減を良く知っているので、ブリッツがいいよと勧めてくれた。それにしてもたかがゴーカートが50万円である。
ハッセでの最初のレースの際は「クラッシュしたら50万!」という思いが強く、踏んでいけず、1コーナーでビリになった。根っからの貧乏性故か、悲しい性である。

通常、レースの日は朝まだ暗いうちに家を出て、サーキットに向かう。冬なんか、着いてもまだあたりは暗いのだが、既に結構な数の人がいる。カートを下ろし、組立てていると空が明るくなってくる。その日の天気を考えながらセットを決めていく。レース進行はドライバースブリーフィング→タイムトライアル→予選ヒート→決勝ヒートというスケジュールだが、その当時は出場台数も多く、全てのプログラムが終了するのは日没後という事も良くあった。
台数が多いためか、タイムトライアルの結果が0.5秒ほど遅いだけで順位は大幅に下がる。予選ヒートのグリッドに並べない車両はコンソレーションに出場する事になるのだが、私はちょうどその境目あたりの順位が多かった。だがある雨の日、6番手のタイムが出た。周囲は皆驚いていて、他のチームの方からも「今日はどうしちゃったの?凄いじゃん!」などと声をかけられた。雨は元々得意だったのと、タイヤがまだ新しかったという事もあったのだろう。だが、予選がスタートしてみると上位の方はバトルも激しく、それに慣れない私はプッシングされそのままコースアウト。再スタートするが、スプリントレースではどうしようもない順位になってしまう。ちょっと残念であった。皆はこういう経験を積みながらどんどん上手くなるのだろう。僕はそこまで到達出来なかったという事だ。

ともあれ、ハッセを購入してからやっと本来のモータースポーツらしさという物に出会えた事は嬉しかった。1人で行くと他に頼るものが無い。肉体的にはキツいが、精神的にはある程度のプレッシャーが有るのでそれも良かった。それ以前は他人に随分甘えていたのだというのを、今更ながらにして思った。

当時乗っていたのはゴルフUの1.6ディーゼルだったのだが、カートをルーフに乗せるのは一人ではちょっと大変だった。ところがこのゴルフのリアシートを外すと(ビス2本取れば外れる)、カートがすっぽり納まり、都合が良かった。リアのレッグスペースに工具箱や燃料タンクなどを置けるのも、走行中に移動したりしないので良かった。今まで乗ったトランスポータの中でも、維持費等も含めて考えると、一番便利且つ経済的だったといえるかも知れない。

転職をしたりで、年収は少しずつではあるが増えていたのだが、レースに没頭し資金も枯渇してしまった。
当然また、暫くお休みする事となる。今回はまあまあ良い所まで来ていたので、お休みするのは残念だった。反面、トップとの差はいつも1秒程度有り、限界かなあという感じも有った。1周30秒程度の小さなカートコースで1秒も遅いのは、相当遅いという事なのだろう。次にお金が貯まったら、ミッションカートを買って、もう少しゆったりと走れたら良いのにとも思った。

暫くの後にポカール仲間がゴーカートを始めるようになり、時々ではあるが皆と走る機会が有り、楽しかった。その頃、栃木にフェスティカというコースが出来たのだが、広いピットにはエアも来ており、ロッカールームにはシャワーも備えられていて、なかなか良い所であった。今はル・マン24時間レースの覇者となった荒聖治くんも、2度位は一緒に来ただろうか?聖治君に教えてもらうと格段にタイムが向上した。悪い所をきちんと指摘してくれる人が居れば、僕もそこそこ走れるのだという事がわかって嬉しかった。当然ながら教え方が上手かったのだけれど・・・「TAKE54さんはあそことここが悪いので、こんな風にしてみましょう」という感じで、具体的に説明してくれた。

今は市原に移転してしまったが、四街道に有った「旧?新東京サーキット」でも聖治くんに教えてもらった事がある。やはりこの時も、殆ど走ったことのないコースで上手に走る事が出来た。
新東京は、当時の僕のホームコースだった太井松田カートランドなどと違い、アグレッシブなドライバーが多く、初心者はビクビクしながら走るのだが、私は聖治君に教わったおかげで彼らに負ける事なく走れた思い出深い所だ。このコースは日本テレビ系でやっていた、とんねるずの「生ダラ」でよく使われていたので、知っている方も多いだろう。

このカートはとことんまで使用した。スペアパーツもそれなりに揃ったので、あちこち直しては走った。ミッションカートを購入してからも手放さず、結果的に10年近く手元に置いてあったと思う。イニシャルコストは高かったものの、これだけ楽しめたのなら元は取れただろう。
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タイトル 日 時
カート歴1981〜1993
最初に購入したフレームで、何度かレースに出たが、全くお話しにならなかった。他のカートに付いていく事が全く出来なかったのだ。これはおかしいと思ったのか、カートショップの社長が乗ってみてくれた。ところがその際他のカートと接触してしまう。どうやら操縦性にかなりの問題があったようで、右コーナーで曲がりにくかったとの事。僕は初めてのカートなので知る由もなかった。そんなものだろうと思っていたのだ。 接触のダメージも有り、カートは使用不能になってしまったため、社長の手配で先輩のお古を格安で購入出来る事となっ... ...続きを見る

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2008/01/22 16:55
ムサシノ
僕が最初に参加したカートレースは、横田基地近くに有った「ムサシノサーキット」という所で行なわれた。今はもう、住宅地か何かになっているのであろう。騒音問題等で廃止になったのかと思われる。 ...続きを見る

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2008/01/16 12:44
K−TAI 2004
2003年は長男がまだ乳飲み子だったので参加をお断りしたのだが、2004年のK−TAIにまた誘っていただけた。後輩は「お金は不要です。クルマも自分達で作るので、TAKE54さんは気兼ねなく楽しんでください」と言う。嬉しい言葉ではあるが、プロの助っ人ドライバーでもなく、カートだってメチャ上手な訳ではないので、かなり躊躇したのだが、カートを進呈した事などの恩返しであろう後輩の気持ちを受ける事にした。 ...続きを見る

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2008/01/11 16:52
K−TAI 2002
2002年、モテギK−TAIに出場した。K−TAIとは、カートを使用したお遊び的な耐久レースだ。お祭り感覚である。本番は7時間耐久なのだが、僕らはその前日(8月3日)に行なわれる3時間耐久に出場するのだ。 ...続きを見る

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2007/12/23 22:26
ミッションカート
僕らが「スプリントカート」と呼んでいた比較的シンプルな構成のゴーカートから、モーターサイクルのエンジンを流用した「ミッションカート」と呼ばれる物へ乗り換えたのは1998年頃の事であった。 最初に購入したのは、ヤマハのモトクロッサー「YZ80」のエンジンを、イタリアのビエッセというフレームに搭載した奴だった。これは新車で購入したのだが、エンジンの始動や、セッティング等のノウハウが掴めずに非常に苦労した。当時はまだ静岡に住んでいたため、周囲に友人や知人等が居らず、近所の「つま恋サーキット」という所... ...続きを見る

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2007/12/14 07:51
聖治くん
聖治君というのは、全日本やスーパーGTなどで活躍している荒聖治選手の事である。2004年のル・マン24時間レース優勝者でもある。日本人でル・マン総合優勝した事があるのは関谷さんと聖治君だけだ。 ...続きを見る

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2007/11/19 12:44
94’パシフィックGP
1994年、95年には岡山県にある「岡山国際サーキット」(当時の名称は「TIサーキット」)という所でF1が開催された。日本で1シーズンに2回、F1が開催されたのはこの時だけだ。お金の力でF1を開催したと言える。 ...続きを見る

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2007/10/25 22:23
審判員
ポカールが無くなってしまってからは、サーキットへ行く機会が当然ながら激減した。 ...続きを見る

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2007/10/11 22:55
Pokal
1988年頃、ポカールクラブというところでアルバイトを始めた。仕事はVWゴルフで行なうモータースポーツイベントでの会場設営やそのサポートなどだった。 当時私は、ゴルフUの1.6ディーゼル・4速マニュアルシフトという車に乗っており、すっかりVW党になっていたので、カーグラに載っていた先のアルバイト募集記事に飛びついたのだった。 ...続きを見る

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2007/10/02 23:31
ゴーカート
23歳頃、ゴーカートを始めた。今から35年ほど前の話になる。 ...続きを見る

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2007/09/27 21:04

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